気仙茶

気仙茶あれこれ
  岩手県の沿岸南部で普遍的に見られる茶について、気仙地方での栽培、導入経過を
取りまとめここに記録しておきたい。(沿岸部の茶園は3・11東日本大震災で消失)


1.茶の北限産地としての位置づけ
  茶の栽培の北限は一般的に限界生産地を意味するが、経済性を無視した茶樹の 
  分布とは異なっていることは申すまでもないことである。
   茶樹の分布は青森県黒石市在の寺院やリンゴ園の下作として栽植されていた。
  又、秋田県能代市には現在でも20aの茶園を営んでいるとのこと(静岡茶試大   
  石)から判断すれば、その北限は東北地方北部に達して いるといえよう。
  しかしながら、栽培による生産、流通面から考えるならば、茶樹の分布はそのまま 
  北限にはなり得ない。即ち、産地としての絶対的生産量 が少ないことから、事跡的
  茶樹の分布とは別に、製茶を営んでいる地 域を茶の北限産地と考えて良い。
  幸いにも当地方は古くから、茶の産地として現在まで量的多冪の変遷はあるものの
  脈々と製茶が続いていることからすれば、茶栽培の北 限が太平洋岸では気仙地方
  であると云える。
2.気仙茶の歴史と背景
   かつて陸前国とはいっても所詮は白河以北一山百文といわれた避村のひとつに 
  すぎない小村にどのような経過から茶作りが始まったか 興味が持たれる所である。
  柳田国男氏によれば、我が国には伊豆の南端や紀州の熊野辺には茶の木が自  
  生?していたといわれるが、これが当地方まで自生とは推定され難い。
  もともと当地方は農漁業地帯ではあるが、狭小な農耕地が多く、社会経済的にも他 
  地域との交流・出稼ぎ等による生計維持を余儀なくせざるを得ない地域である。
  また、古くは産金による交易がその中心であった地域である。
  各地の茶樹の移入栽培の普及状況をみると、経済的に恵まれた武士・富裕な町商 
  人等の屋敷内での小面積茶園や寺院等での積極的栽培。更に、諸国間の物産交 
  流、京都方面への修行僧侶、伊勢参りに出かけた庶民等によって各地に移入栽培さ
  れたと考えられている。従って、当地方での栽培もこれらの中から栽培され定着化さ
  れたであろうことは類推するのは容易である。
   加えて、北東北の地にあっても年平均気温11〜12℃、積雪は少 なく、根雪期間
  は殆どない気象的環境が立地条件としての制約因子にはならず今日まで脈々と茶樹
  が栽培可能な地域として存在していることも十分立証に値する。

(1)寺院との関係
   当地方での茶樹の栽培について、若干の資料から歴史的展開を推察してみたが、
  当地方の寺院関係の民間伝承面では、天台宗や大江千里、行基菩薩、弘法大師な
  どの昔語りはあるものの茶との関係はみられなかった。
      ◎江戸時代…緑茶、煎茶、番茶 、庶民に広く普及。
      ◎ 四木三草:チャ・ウルシ・コウゾ アイ・アサ・ベニバナ
           ◎農業全書:「宇治・醍醐・栂尾、これが本朝の三園」
   茶の普及初期は、仏教、寺院との結びつきが深くみられ、仏教の普及が茶樹の伝
  播普及に大きな役割を果たしていることが伺われることからすれば、当地方の茶樹 
  も寺院との関係は無視できないと思われた。
    特に、陸前高田市米崎町の普門寺、大船渡市日頃市町の長安寺などの境内に
  は茶樹がみられるし、普門寺のそれは茶園の型であった。一方、沿岸地方北部の下
  閉伊郡山田町にある福士左馬亮政保の次男安定の菩提寺竜泉寺にも茶樹が見ら 
  れるといわれている(松木良一郎)。これら、三寺の開創年代をみると次のとおりであ
  る。
  ・長安寺:正善坊(金為雄の子孫・比叡山で修行)天台宗。その後、真宗(大谷派)1
   390年から真宗に改宗し今日に至る。
  ・普門寺:1241年栄西禅師の弟子記外大和尚(臨済宗)普門寺開 闢。1504年浜
   田城主千葉宗網、如幻和尚(曹洞宗)に請じ再興開山し今日に至る。
  ・竜泉寺:1439年甲斐源氏武田の未流福士し創立、1672年天皇思佐大和尚 (曹
   洞宗)を開闢の祖とし今日に至る。
    なお、普門寺・長安寺とも当地方の産金との関係も深く、その当時の中央との交流
   などからも茶の栽植の移入も類推される。特に、江戸時代中期頃からは、それぞ 
   れの寺で茶を好み、かつ、茶道を極めて庶民にも広く茶が普及したであろう事は想
   像に難くないがその伝承は皆無であった。
  当地方の場合、寺院とは全く別に茶樹の栽培普及の発端が存在している事実があ
   った。

(2)気仙茶の伊勢参りとの関係が強く、1700年代初めが幕開け
   当地方に散在する茶園で、最も集中している地域は、陸前高田市米崎町である。
   米崎町神田部落一帯が特に集中しているが、この部落では古くから茶を栽培して 
   いたと伝えられ、いい伝いが明らかな資料で検証してみると次のとおりである。
   浜田村神田住、村上林之助(陸前高田市米崎町神田、現姓吉田)が若い頃、伊勢
   参りの際に宇治山田方面まで行って?(もともと、伊勢神宮の地域は「宇治・山田」
   の地名もあった:有名な江戸南町の大岡越前守はもともとは山田奉行所の奉行か
   らの抜擢:吉田)、種子を持ち帰り、当時、開墾した中陣地内の開墾畑に播種し育
   てたものが始まりと伝承されている。
   現吉田家は部落では旧家に属し、故人であるが吉田隆氏で12代目となっている。
   吉田家は、昔は村上姓であったが、その後、吉田姓と変わっている。同家の「永代
   證文入箱」の中には、村上林之助なる人物が三代目に出ていて、明和九年(177
   2年)83才で没している。林之助にかかる同家の言い伝えによれば、若い頃伊勢 
   参りに2〜3回出かけたという。
  陸路であったか海路であったかは定かではないが、当時は海路が盛んであった事 
   からすれば、海路が当然と思われるがこの伊勢参り  の際、茶の種子を持ち帰っ
   たといわれている。封建制度下の一農民がかなりの経済的負担をもかえりみず伊
   勢参りが数回にも及でいる事実は、地方特産の海産物の仲売、問屋下請け等の商
   業的交易分野での活動と関係したものと考えざるを得ないが、いずれにしても、  
   この林之助の茶の栽培が現在の気仙茶栽培の幕開けで、年代的にも1700年代
   の始めの頃と思われる。
      何故に茶が栽培されたかを吉田隆氏から話しを伺った結果、中陣の開墾畑は傾
   斜地でしかも中陣(浜田村と勝木田村の境)を拓いて2〜3年後に茶を植えたと云わ
   れている事からすれば、土の流亡をふせく意味もあったのであろう。特に中陣地内
   の茶樹の栽培は、畑地周辺の畦畔を主体とした栽培で、かなり大型な茶樹が昭和
   60年代まで 農道沿えに整然と植栽されていた(現在は農道の拡幅で伐採)。ま  
   た、普門寺の茶園は林之助の茶樹からわけたものと云われている。
   中陣の茶の評判から急速に気仙地方の沿岸地域一帯に広まったと言われている。
 

(3)明治以降の茶業・産地化
   明治元年の外国向け輸出が6千トン358万円余と、世をあげて輸出ブームあった
   が、気仙茶は米崎町脇ノ沢港から仙台大町のお茶所(亀谷万吉)に船積みして送 
   っていた。
    明治24年の岩手県南貨物移出入統計によると、盛岡以南より輸出の茶は10,2
   20斤で、盛岡以南より輸入の茶は16,770斤であった(明治前期 岩手県農業発
   達史森嘉兵衛著)。
   浜田村神田と勝木田村樋の口の境界が中陣であるが、樋の口の熊谷文彦宅には
   仙台大町のお茶所(亀谷万吉)への荷送り用の紋章、貯蔵用瓶などが現存してい 
   る事からすれば、気仙地方は北限の製茶産地であったことを如実に物語っている。

    一方、気仙地方の地域内の需要を見ると、この頃、中陣の茶の品質が良いと言う
   ことから、隣町の高田の浄土寺などからも注文があり、地場需要は寺院が大きな 
   顧客であった(前記吉田家からの分家吉田菊三郎氏によると、一番茶は寺院の注
   文にまわされ、二番茶は自家用にされたと記憶している)。明治10年、陸前Sの生
   産量5百七十五トンで全国5位の生産量であった(元東北農試大越篤・東海近畿農
   試)。
  また、元岩手県農業試験場南部分場長の松本良一郎氏からご恵贈頂いた資料をま
  とめると次のとおりである。
 @脇ノ沢港から気仙茶として仙台のお茶問屋に販売していた(明治20年頃まで40〜
   50年間、出荷量は不詳)。
  A大正年間の沿岸茶の栽培面積は、30町歩で主として自家用茶となっている(畦畔 
   延長面積換算)。
  B沿岸茶は、山田町織笠〜釜石、大船渡、陸前高田、唐桑半島までに散在。
 C昭和20年以降、食糧増産により茶樹は伐採され、10町歩内外と著しく減少した。
  D昭和28年、岩手県農業試験場南部試験地(南部分場の前身)に製茶工場が設置さ
  れたのが契機となって、静岡県から苗木が導入され、大船渡・陸前高田の両市は、
  茶樹の増殖計画により植栽され、栽培面積が増加した。
   昭和40年頃までに両市に導入された茶苗は5万本前後で、10a2000本換算で2
  50a増反されたことになる。
 E南部試験地の製茶工場は、昭和31年に閉場され、かわって小友町に陸前高田市 
  農協の製茶工場が新設された。同32年には赤崎工場(大船渡市農協)が設置され 
  ている。自給茶の製茶工場であるが、小友工場12トン、赤崎工場6トンで合計18ト
  ン前後の製茶量であった(10a茶生葉一番茶150`c換算で12f分相当)。

   なお、気仙茶は「105の茶」と言われているが、これは八十八夜から17日遅れで 
  茶摘みされることから銘名されたものである(元農試南部分場松本・藤田)。

3. 現在の気仙茶の栽培
 気仙地方の茶園は、昭和51年当時までは、大船渡市猪川町富岡の千葉武司所有20
 e(故人、福祉の里の建設で廃園)、陸前高田市農 協小友支所20e(現在廃園)  
 等、本格的な茶園が見られていたが、平成15年現在、茶園形式のものは、大船渡市
 立根町、同日頃市町、 陸前高田市気仙町等で小規模であるが各5e程度の茶園が
 見られる程度である。
 したがって、現在の気仙茶の栽培は、規模の大きな茶園方式の栽培 は激減し、畑地
 や樹園地等の周辺茶樹がその主体で、およそ1〜2f 程度の栽培面積と推定される
 が、収穫放棄されている潜在的面積は、その倍はあると思われる。

 なお、最近は各種補助事業や地域活性化事業調整費等を活用しながら、製茶工場の
 整備や直売施設での販売、茶を利用したアイスクリーム等機能性をも念頭に置いた商
 品開発が行われる等、新たな北限な らではの動きがでてきていることが特記されよ 
 う。

  以上、北限の製茶産地としての気仙茶にかかる歴史的背景を、前後脈絡もなく述記
 してきたが、茶業産地としての隆盛は明治20年代までと言ってよさそうである。
 船便を頼りとした気仙地方の交易・交流が、鉄道の開通に伴って西南暖地から本場物
 の茶が移入されてきただろうし、終戦直後の食糧増産による茶樹の伐採、さらに商品
 作物の導入等から衰退一途となり、現在の気仙茶となっているのであるが、現実に現
 在でも製茶が営まれていること。本格的茶園は少ないものの畑地周辺の潜在的茶樹 
 の分布などから脈々と製茶が受け継がれてきている事は事実である。
 産地形成は、経済的条件や流通問題が中心であるが、すべての生産 物が経済的条
 件や流通面からのみ作られているものではない。そこには「生活文化面・余暇・生産・
 収穫できる喜び・親しみ」等、ゆとりあ る感性も特色ある地域的価値として評価すると
 共に、気仙茶はタンニンが少ない特徴があり、糖尿病患者の飲用に適する等機能性を
 活かした商品開発も含め、地産地消・土産土法の一環として積極的に活 用したいも 
 のである。           (2005・5月 吉田 一衛)


 関係資料  http://www16.ocn.ne.jp/~kakocyan/
         北限の製茶産地(気仙)
 ◎一昨年、気仙茶の荷送り状の印章についての問い合わせがありましたので、参考ま
  でに上記「北限の製茶産地(気仙)で紹介しています。
 ◎また、平成20年6月、農業誌”家の光(東北担当)”から、気仙茶に関する問い合わ 
  せがあり、情報を提供しています:家の光(東北版)8月号に掲載。

         問い合わせ kaakocyan@yahoo.co.jp

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