気仙・陸前高田と絵馬あれこれ

気仙・陸前高田と絵馬あれこれ
如意山一乗院金剛寺も3・11東日本大震災で跡形もなくなくなりました。
往時の歴史を偲ぶため、アップしておきます。
 いつの世も困った時の神頼みですが、古代では馬が神・神霊の乗り物と信じられ、神
社に生き馬を献上しています。やがて、高価・貴重な生き馬から土製・木製の馬形へ、
奈良時代には板に馬の形を切り抜いたにものへ、平安時代には板絵馬:絵馬が誕生
し、馬のほか仏・菩薩、三十六歌仙等が奉納され、同時代末には、神仏習合思想から寺
院にも絵馬の奉納が見られてきています。一般に広まったのは鎌倉時代以降、庶民に
は江戸時代半ば頃からでしょうか。馬は現在でもお祭りの必須のアイテムとなっていま
すが、絵馬の歴史は千年以上も暮らしの中に、時代とともにとけ込みながら引き継がれ
てきています。
 ところで、「絵馬」の言葉は、京都市の北天満宮へ大江匡衡が1012年「色紙絵馬3疋
(匹)と走馬十列」(縦19.5cm横27cm厚さ0.7cm。墨・ベンガラ。白土3色)を差し出した
(本朝文粋)のが最初とのことです。大江匡衡とは、大江千里の3代目の子供で、大江千
里は気仙・陸前高田とゆかりがあります。その昔、大江千里は罪を着せられて気仙に下
向し、如意山一乗院金剛寺を建立していることです(如意山一乗院金剛寺は、葛西領千
葉安芸守の祈祷所で、安芸守の居城の関係から3ヶ所移転しています。「高田村:高田
洞→濱田村:濱田・山寺→今泉村:今泉・金剛寺(現金剛寺)」)。

     *****大江千里 百人一首・古今集*****
  月みれば ちぢにものこそ 悲しけれ
               わが身一つの 秋にはあらねど
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主な参考資料:陸前高田市史・宮城県史
◎<<気仙風土草 巻之上 相原友直著(抜粋)>>(宝暦11年・1761年)
 今泉駅。如意山金剛寺。真言宗醍醐報恩院末寺。気仙郡中本吉大島の真言寺此寺の門中
 なり。仁和年中。大江千里事に坐せられて奥州に下向し。氷上権現に詣でゝ帰洛の事を
 祈り。又宥鑁法印をしてこれを祈らしむ。同四年赦を蒙る事を得たり。於是此寺を建立 
 す。寺跡高田にあり。後濱田村に移す。
 葛西領の頃千葉安芸守祈祷所なり。安芸守始め高田に住し後濱田に移すが故に。寺も又
 従之。濱田寺跡を山寺と云。今に於て此寺の持領なり。其後亦今の地に移す。○什寶弘
 法大師自畫像一軸・貞樹院殿寄附。此外什寶多し。
◎風土記御用書出(気仙郡今泉村肝入り伊蔵(安永6年・1777年)
  一寺  三寺   如意山一乗院金剛寺(以下、省略)
◎米崎村史(及川与惣二著)・・・如意山一乗院金剛寺:高田村と濱田村移転が逆になっ
 ているが、現在の気仙町への移転の経過が伺われる(詳細省略)

<新着情報>
 珍しい絵馬がありました。東北地方には縁の深い「牛若丸と弁慶」の絵馬ではなく、「源
頼朝と梶原景時」の物語絵馬2枚です。源頼朝の死後「梶原景時」が惨殺され、それに伴い
梶原一族は各地に離散しています。
 陸前高田市横田町舞出地内は落人の里と言われ、先祖は大和の国から観音様を背負って落
ちてきた武将との事です。「平栗福寿庵」にある鎌倉党の物語絵馬は、地域に多い「荻原
氏」の関係から、「梶原」の姓を名乗れないため、「梶原」姓を分解して、梶原=尾+木+
原=荻原」となったことから、「梶原景時」の物語絵馬が奉納された考察されています。

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